私たちの提言
いじめ自殺を防ぐために-「心の理論」の再生に向けて-
(マインドファースト通信No.87 2012年8月号から転載)
文部科学省は,いじめ問題に対して国主導で取り組むとして総合対策を発表した。その一つに未然防止策があげられている。発生主義に立った対策だけでは,失われるものが少なくないため,発生そのものを防ぐことが可能であれば,その方が望ましいことは言うまでもない。そのためには,発生原因の解明が前提になる。健康問題の予防を行なう公衆衛生分野においては,未然防止は一次予防とも呼ばれ,予防活動における大きな柱の一つである。しかし,すべての健康問題が未然に予防できるわけではない。原因が明らかになっていない健康問題が少なくないからである。まして,社会的次元で問題になる人の言動や感情反応となると,その原因を特定することは極めて困難である。発生原因が,単純ではなく,複数の要因が複雑に絡み合っているからである。とはいえ,これまで,地域社会で人間関係をめぐる問題が起こるたびに,人の心の痛みを感じる能力の低下が指摘されてきた。これは多くの人が認める事実であろう。実効あるいじめ未然防止対策は,こうした経験則を具体的行動計画の中に生かすことができるか否かにかかっているともいえる。
心の時代と呼ばれるようになって久しい。そうした中でこのところ関係者の注目を集めているのが,「心の理論」である。心の理論は,他者の心の動きを推し量る能力のこと,正確には,人の信条,感情,願望,希望,意図などの精神状況を理解しなければいけないと感じることができる能力とされている。それは,他者の感情ないし思考を想像する手段でもある。心の理論によって,人が示す行動が,その人の内面の感情,信条,意図などによってもたらされることが理解可能になる。こうして,私たちは,人の行動を予測したり,期待したりすることもできる。しかし,人の行動とその人の内的感情を結びつける能力がないときは,心の理論の欠如のために,誰かの行動を理解したり,予想したりすることが難しくなる。人が悲しんだり怒ったりする理由が理解できないために,他者の行動の意味が理解できなくなる。
いじめは,子どもだけでなく,大人にもあることだ。ハラスメントをはじめ,人の感情を弄んだり,人が困るのを見て楽しむテレビ番組や被害者や被災者に対して「どんなお気持ちですか」とマイクを向ける報道姿勢などに,人間特有の嗜虐性を見ることができる。いじめは,随所にあるが,見えにくく,それだけに根が深い問題である。霊長類などの高等動物には,他人の行動を自分の行動のように感じ取らせる神経細胞があることが明らかになっている。他人の行動を見て,あたかも自分が同じ行動を取っているかのように反応することから,ミラーニューロンと呼ばれ,これが共感能力を司っていると考えられている。しかし,こうした遺伝形質に頼るだけでは,人は,せいぜい高等動物どまりだ。人の心の動きや意図を感じ取れる「人」になるためには,経験と訓練と不断の努力が欠かせないことは言うまでもない。
例えば,信号機のない横断歩道の端に人が立って左右を見ている場面を浮かべてみよう。普段よく見かける光景である。このとき,歩行者はドライバーのどのような行動を期待しているか,ドライバーが横断歩道の手前で停まったときに歩行者が体験するのはどのような感情か,また,ドライバーが停まらずに行き過ぎたときの歩行者の感情はどうであろうか,そして,自分がドライバーであれば,どのような行動を取ると思うか。私たちは,自分自身の情動とか他者の感情の心の光景を創り出すことができる。他者の感情ないし思考を想像することができるのは,人だけであって,動物にはないことだ。そして,こうした場面を思い浮かべても分かるように,人の心の動きや意図を感じ取るには,心の理論を向上させるための訓練と努力が必要になることは明らかである。つらいことがあって眠れなくなったため,心療内科を訪れたところ睡眠導入剤を処方された。自分が求めているものとは違うような気がしたという声を聞くことが少なくない。精神科医であっても,心の理論を身につけることは,容易ではない。患者の言動から心の動きや意図を感じ取れるようになるためには,ここでも経験と訓練と日常的な努力が必要になる。
いじめの解決に向けても,学校現場を,相手の言動から相手の心の動きや意図を感じ取り,相手の反応の意味を理解しようとする場にして行く,すなわち,学校を心の理論の再構築の場にして行くことを提案したい。そのためには,子どもたち同士や生徒と教師の関係の質の転換を図る取り組みが不可欠である,障害者や被害者など仲間同士の支えあう関係や場をもつことをピア・サポート呼ぶ。ピア・サポートは,自分も悩みや障害を持ちながら,相手を理解し,情緒的に支え,社会的つながりを再構築する上で大きな力を持っている。ピア・サポートの目的に,望ましい人間関係を引き出すこと,より力をつけること,社会的機能を高めること,生活の質を改善すること,健康に関する認識を改善すること,困難や病気に対処する能力を増進することなどがあげられる。ピア・サポートは,「自分も同じだ」と感じている人たちに出会えるところに活動の源泉がある。生活者として,お互いのつながりを感じ,共に体験を分かちあえる者同士として,深い理解を育んで行く。そうした,お互いのことを分かりあえる体験の場が大切だということだ。
香川県でも,先に子どもたちが中心になって「いじめゼロ子どもサミット」が開かれた。「相手の話を聞きたい」「相手のことをもっと知りたい」といったこうした場で体験する子どもたちの純粋な気持ちを大切にしたい。教育委員会は,これをイベントとして終わらせたり,いじめ対策のアリバイづくりにしたりするのではなく,学校現場での日常的な取り組みとして根づかせて行けるかどうかが問われている。例えば,仮想のシナリオのもとに「自殺予防ごっこ」をやってみる。その後で,自殺をしたがっている子ども役をした生徒,自殺を止めようとした子ども役をした生徒,その場面を観察していた生徒たちが,相互に感想と意見を述べあう。さらに役割を交替して同じことをやってみる。こうした積み重ねの中で,生徒が「自分も同じだ」という情緒的体験を共有する場を持てるようになることが大切だ。やり方は他にもあろうが,心の理論の向上は,子どもたちにプロとしてのカウンセリング技術を学ばせることを目的としているのではない。
近年児童虐待は増加の一途をたどり,自殺者数は10数年来高止まりしている。その背景に,「二つのことをつなぐ大切なこと」,すなわち社会的紐帯の弱体化があるとの指摘もある。いじめなど,学校現場で起きる問題行動についても同じことが言えるのではなかろうか。監視強化や道徳教育など上からの垂直指導型の対応で,子どもたち相互の関係や大人と子どもの関係を変えることは難しい。非意図的とはいえ弊害すらあるだろう。教師たちも,そばで眺めているだけでなく,心の理論を高める場に積極的に参加してみると良い。その中での気づきは少なくないはずだ。うつ病で休職していた教師が,職場復帰したところ,「先生うつ病だったんだって」「治って良かったですね」と生徒から声をかけられたという話をこのところよく耳にするようになった。心の時代は,大人や教師よりも,生徒の方が先を歩いている。いじめは,次の世代の心の理論の再生に向けて,子どもたち自身の力を信じ,それを引き出すために,大人たちの落ち着きと寛容さが問われている課題でもある。
(マインドファースト通信編集長 花岡正憲)