『絶歌』をとおして見えてきたもの
-更生と社会復帰のはざま-
マインドファースト通信編集長 花岡正憲
1. 非難の嵐の中で
『絶歌』(太田出版 2015年6月28日初版)の著者少年Aは,1997年に起きた神戸連続児童殺人事件,いわゆる酒鬼薔薇聖斗事件を起こした当時14歳の少年である。32歳になった今年,手記を出版した。
今回の出版に際しては,マスメディアや専門家の間では,非難の声が大勢となっている。本の回収をはじめ,手記の出版を自己顕示欲のあらわれであると非難する声も少なくない。社会の底流に,「あれだけのことをしたのだから,社会的に目立つことをせずひっそり生きて行くべきだ」と言った感情論があり,バッシングの感すらある。カスタマーレビューには,ヘイトスピーチとも言えるものも見られる。
Aの居場所や動向の捕捉を行なう必要性を訴えたり,監視システムとしてGPSの活用を提案したり,いたずらにAを危険視し,社会不安を煽るものもある。マスメディアや専門家の非寛容な言説が,およそ似ても似つかない人物が実在するという錯覚を生み出してしまいかねない。手記が出版される前から,一部マスメディアでは,Aの所在を突きとめようと血眼になっていたことも,今回のことで明らかになった。一事不再理という原則がある。一度,少年法で裁かれた人間が,成人して自立に向けての合法的な社会参加のトライアルの過程において,同じ罪状でまた裁かれる。こうしたことがあれば,社会的リンチである。
この点で,わが国の精神疾患患者や性的少数者など,スティグマを受けやすい人々の社会参加を阻むものと重なるところがある。精神を病んだ人も,過去に罪を犯した人も,圧倒的多数の人々が,社会復帰に異を唱える人たちのすぐ傍にいるという現実がある中で,当事者性を持った人たちにとっての社会参加には,匿名を通し,社会の目を逃れ,所在を明かさず,マスメディアに追い詰められずに生きて行くことであるという逆説がある。
少年法の適応を受けなくなった今,Aは実名で手記を出版すべきだったという意見もある。社会的差別を受けやすい人たちは,カミングアウトに際しては,その方法とタイミングに慎重になるものである。将来,Aも自分と社会両面から,その意義を考えて,実名を明かしてカミングアウトすることがあるかもしれない。しかし,今日,そうした外部環境が整っていないことは明らかである。

2.更生とは何か
アメリカ映画『ショーシャンクの空に』(原題は,「The Shawshank Redemption ショーシャンクの贖罪」 監督 フランク・ダラボン 1994年公開)の一場面である。終身刑でショーシャンク刑務所に長年服役するモーガン・フリーマン扮するレッドの仮出所前の審査面接場面である。ドアを開けてレッドが入り椅子に座る。
男性面接官「終身刑で既に40年か。更生したと思うか?」
レッド「更生というのは国が作った言葉だ。君たちに背広やネクタイや仕事を与えるために。罪を犯して後悔しているか知りたいのか?」
男性面接官「後悔しているのか?」
レッド「後悔しない日などない。罪を犯したその日からだ。あの当時の俺は1人の男の命を奪ったバカな若造だった。彼と話したい。まともな話をしたい。今の気持ちとか。でも無理だ。彼はとうに死に,この老いぼれが残った。罪を背負って」
この面接の後,審査書面にreleased(釈放)のスタンプが押される。
わが国では,国民の8割以上が死刑に賛成ないし容認派である。こうしたことからも,更生よりも厳罰主義による応報刑を望むものが多い。そうした中で,Aは,少年法に基づく更生を前提とした処分であった。今回の匿名での出版については,その時期や方法に異論もあろう。手記の出版が,現在32歳のAの今後の人生にとってどのような影響があるかは分からない。とはいえ,人それぞれの更生の姿があって当然であろう。
Aは,手記の中で,順調に更生の道を歩んでいると自覚する。一方,これまで地域社会や国家やサポートチームに管理された生活を振り返り,贖罪とは何かと自問する。そして,むしろ管理された中に自由があることを認めながら,「ひとり」になることを考えるようになる。「少年A 」ではなく,過去を知る人がいない土地でゼロから自分の居場所を創り上げたいとチャレンジをはじめる。

3.性的サディズムの克服
再発防止への関心は,「性的サディズム障害」の克服と言う視点であろう。本書では,これまで,精神科医ないし心理療法家がどのような役割を取ってきたのか,また,今も,精神科医との関わりがあるのかどうかは分からない。
手記の冒頭に,スクールカーストの光景の記述がある。思春期に不適応や問題行動をきたしやすい多くの子どもたちにとっての原光景である。学校や交友関係をめぐり,差別や階層構造をつくり出してしまっている大人社会の問題は無視できない。しかし,少年Aの問題行動の要因を思春期の子どもたちを取り巻く環境に求めることは難しいというのが印象である。精神的病が,次第に周りの人間との関係や行動を歪めたものにしてしまったとは言え,人間関係や環境が心を病んだものにしてしまったとは考えにくい。300ページ近い手記は,「1997年6月28日。僕は僕でなくなった。」ではじまる。1997年6月28日は,警察に保護された日である。それ以前に「僕が僕でなくなっていく」過程があったとは思えない。
祖母とのつながりは強く,祖母の死という喪失感が,影を落としてはいる。しかし,これを「攻撃性」と「性衝動」の結合のきっかけとすることには違和感があるとA自身が述懐している。性的サディズムの行為化との関連性を否定し,Aは,普通の家庭に育ったと語る。
「性的サディズム障害」の病因論については,主として精神分析的観点からの諸説があるが,定説はない。そもそも,精神分析的ないし力動的精神医学という知の体系が,Aの「性的サディズム←



→障害」に有用なのかどうかも不明である。あいにく,Aには,自助グループへの参加と言う選択肢も使えない。衝動のコントロールと言う点で,セックス中毒に陥ったインド建国の父,ガンディーの禁欲生活について言及し,性欲を解放するのではなく,抑圧することの快楽について,批判的な見解を述べている。認知を変えることにより,性衝動をコントロールしようとしたA自身の試みがあったように受け取れなくもない。いずれにしろ,Aの性的欲求の充足そのものが否定されているわけではない。「性的サディズム障害」による興奮が,人の命を奪う。問われたのは,A特有の性欲充足の質的異常であるサディズム(攻撃性)である。それなのに,何故にAをして,性的にストイックになることを求められていると思わせ,それに反発を覚えたのか。そして,その反発がどこに向かっているのか気になるところではある。

4.内省から回復(リカバリー)へ
Aにさらなる内省を期待する意見を述べる者もいる。思春期の子どもに巣くっていた精神的病の克服が,果たして内省を前提としたものでなければならないのかという基本的疑問がある。心理的次元で内省力を高めることを過大視するのではなく,社会経済活動への参加が心理面の安定を促すという視点が欠かせないのではないか。内省よりも,日々の体験を通した気づきの中にこそ,本来の回復(リカバリー)があると思う。
Aは,三島由紀夫を愛読し,手記にも修辞的表現が随所に見られる。強い自己顕示欲と評する者は,どこかで耽美主義的私小説と見る向きもあるのだろう。しかし,こうしたことは,多かれ少なかれものを書く人の通過儀礼として見られるものである。むしろ,自己実現に向けて健全な自己愛を育んでいく途上にあると見るべきだろう。
社会参加とは,個人が自己実現のために社会と向き合うことである。手記の出版は,Aの社会復帰過程における現時点での社会との向き合い方であることには論をまたない。Aが,これに伴う責任を引き受けていくのであれば,それも含めて社会参加と言えよう。
手記の終わりに,被害者の家族へのお詫び文がある。感情論を抜きにして,被害者遺族への配慮という点で,公表の仕方に工夫があっても良かったのではないかという意見はもっともであろう。一方,加害者が回復に向けて,どのような変遷をたどってきたか知りたいという一般の関心があることも事実である。
本を書けば,傷つく人,反発する人がいるかもしれないと感じてはいたが,Aが今を生きるために書く他はなかったということであろう。被害者遺族の了解のもとに手記を出版したとすれば,おそらく,Aにとって社会参加における出版の意味が違ったものになっていたのではないだろうか。特に異論が多い遺族への配慮も,本来は,当事者間の課題であり,第三者による立ち入った論評は難しいことかも知れない。

5.パレンス・パトリエを超えて
手記は,猟奇的連続殺人者のモノローグ(独白)でもなければ,殺人者の心理分析レポートでもない。被害者と加害者は,立場は異なるとはいえ,加害者も被害者同様,起きたことを乗り越えていく流れの中にいる。手記の出版は,こうした中でのAのパラダイムシフトとして,社会の側は冷静に受けとめる姿勢が求められよう。
少年法におけるパレンス・パトリエ(国親)とは,国が親に代わって面倒を見るという考え方に立っている。国の範囲は,権力機構だけでなく,保護司や里親,更生施設,そして一般社会の人々といった広がりのあるものだ。32歳になった少年Aの存在を知り得た者であってもそっと見守るべきであろう。それがあったからこそ,今のAがあるとも言える。少なくとも,今回の手記の出版をセンセーショナルとらえることは,Aの今後の社会参加にとっても,また地域社会にとっても,益す
るところはない。被害者遺族の回復と再生のためにも望ましいことではなかろう。
Aは,公園で自分と同年代くらいの赤ん坊連れの夫婦を見て,「何でもない光景」の中に,自分が人(被害者)から奪い取ったものが何であるかに気がついた。それは,自分も失いたくないものであるが,自分には手に入れることができないものでもあった。これは,被害者と自分にとって失われたものへの深い洞察であろう。手記のタイトルである「絶歌」が,Aが今立っているところであるように思う。
第127回理事会報告

日 時:2015年7月13日(月)19時00分~21時00分
場 所:高松市男女共同参画センター 第7会議室
事務連絡並びに報告に関する事項:省略
議事の経過の概要及び議決の結果

第1号議案 2015年度の事業担当理事に関する事項:2015年度の事業担当理事は以下のとおりに承認された。  〇普及啓発事業 花岡,花房/〇教育研修事業 浅海,島津/〇技術援助・技術協力事業 三好,島津/〇人材・組織育成事業 花岡,浅海,島津/〇調査研究事業 中添/〇権利擁護事業 島津,柾/〇国際協力・国際交流事業 花岡/〇事務局 三好,花崎/〇クライシスサポートカウンセリング 柾,三好/〇居場所つくり 花崎,花房/〇電話相談事業 浅海,花崎/〇ファミリーカウンセラー養成講座 浅海,島津/〇相談員研修 花岡/〇強化モデル事業 島津/〇ひきこもりグループミーティング 柾 なお,心の健康オープンセミナーは普及啓発事業に含まれ,認定特定非営利活動法人取得記念事業については,別の議題にて,検討することが承認された。
第2号議案 ビジョン作成に関する事項:花岡理事より,5年あるいは10年のビジョンを作成する必要について提案がなされた。当会は,認定特定非営利活動法人を取得しこれまでのミッションとそれを実現するための事業を行ってきた。広く社会に当会の活動をアピールするためにも,今後理事長がビジョンの原案を作成し理事会の検討事項とすることが承認された。
第3号議案 ボランティア役務の評価に関する事項:NPO法人の新会計基準では,ボランティア役務を評価するために活動計算書にボランティア役務ボランティア受け入れ評価益(受取寄付金)として,計上することができる。当会のボランティア役務として,マインドファースト通信の執筆代が該当するが,その他,何を上げることができるか今後も継続審議することが承認された。
第4号議案 活動費規定,旅費宿泊費規定,報償費規定に関する事項:花岡理事より,報償費支払規定案が示され,審議未了で今後の審議事項とすることが承認された。
以下の議案は,審議未了。
第5号議案 寄付金の依頼に関する事項,第6号議案 家族精神保健相談員資格制度施行規則に関する事項,第7号議案 心のセミナーに関する事項,第8号議案 フォークス21のブロシュールに関する事項,第9号議案 「おどりば」に関する事項,第10号議案 メンタルヘルスチェック関連事業に関する事項。
編集後記:新国立競技場建設をゼロベースで見直し,既存のものを使うという案が浮上しています。旧国立競技場を取り壊してしまった後で気がついたのですから,「覆水盆に返らず」です。今回のことが,早いサイクルで,大量のコンクリートを使って造り,取り壊してはまた造るという悪い癖に効く薬になれば良いのですが。国内に建設業の仕事がなくなったからとは言え,若者の雇用を創出するために,多くの国民の反対を押し切って新しい法律をつくる。そして,海外で核弾頭も含めた武器弾薬を運べるようにする命がけの運送業をはじめると言うのも,いただけません。(H)