児童虐待の基本問題

~次の世代への虐待予防教育を~

先の統一地方選挙の地元の市議選では,児童虐待防止のワンイシューを掲げた立候補者が登場した。今日,児童虐待は,大きな政治課題になりつつある。しかし,この問題の地域社会における認識の広がりは,まだ充分とはいえない。

早くから児童虐待問題に取り組んできた諸外国において,政府や社会に衝撃を与えた事例を振り返り,いま私たちに何ができるかあらためて考えてみたい。

その一つは,英国におけるマリア・コルウェル事件である。マリア・コルウエルは,1973年虐待により命を落とした女の子の名前である。この事件は英国の虐待防止支援対策においてよく取り上げられる。

マリアは母親からのネグレクト(育児放棄)により叔母に5年間預けられていた。この間,母親は再婚をして3人の子どもをもうける。やがて,母親はマリアを自宅に戻して育てることを決意する。マリア自身は母親の元に戻ることを嫌がっていたが,行政機関は母親の考えを支持し,1971年マリアは母親の元へ戻る。しかし,13か月後,マリアは栄養失調と義父によるひどい身体的虐待によって,7歳の幼い命を落としてしまう。

英国では,1870年代に児童虐待問題への関心が高まり,1883年「児童虐待防止協会(SPCC)」が設立され,1889年には「児童虐待防止法」が制定されていた。

しかし,マリア・コルウエル事件は,子どもの意思よりも親の意向を優先したことに対して批判が起き,1975年,子どもの福祉の優先と子どもの希望を十分考慮する地方自治体の責務を明確にした「児童法」の改正が行われた。これがきっかけで児童保護システムを見直す作業が始まったと言われる。

もう一つの例は,米国のメアリー・エレン事件である。

メアリーは,1874年に里親の虐待から救出された女の子の名前である。メアリーは,1864年,生後間もなく父親が死亡し,母親は働きに出る。母親はメアリーの寄宿先の女性に養育費を支払っていたが,2歳の時,母は行方不明になる。1866年,慈善局は,以前子を捨てた夫妻が自分の子どもを改めて引き取りに来た際に,メアリーも一緒に引き受けることを許可し,メアリーは里子となった。その後義父が死亡,義母はコノリーと再婚した。しかし,メアリーは,コノリー夫妻のもとで6年に及び虐待とネグレクトを受けるようになる。

1873年,噂を聞きつけたメソジスト教徒でケースワーカーのエタ・エンジェル・ウイーラーがメアリーを発見する。当時8歳のメアリーの身長は5歳くらいで,衣類は汚れ,腕と足にあざと傷跡があった。ウイーラーは,警察や慈善団体へ相談したが証拠不充分で協力を得られず,1874年に「アメリカ動物愛護協会」の創始者のヘンリー・バーグの元を訪れ協力を求める。この協会の弁護士ゲリーが,人身保護法を用いて警察がメアリーを保護するにいたった。

当時,里親先については厳格な審査が行われているということから養子先で子どもへの虐待が起きたことはないとされていた。しかし,裁判でのメアリーをはじめ多くの関係者の証言から,里親のコノリー夫人は,傷害罪で1年の実刑判決を受ける。

2019年1月千葉県野田市の小学4年,栗原心愛(みあ)さんが自宅で虐待死した。2017年11月には小学校が実施したいじめのアンケートで,「お父さんにぼう力を受けています。夜中に起こされたり起きているときにけられたりたたかれたりされています。先生,どうにかできませんか」と書き,父親から暴力を受けていたことを訴えていた。ところが,学校側はこうした心愛さんのSOSに気づかず,市教育委員会は,父親の脅しに屈して心愛さんの←


→いじめアンケートのコピーを渡していたことが明らかになった。

マリア・コルウェル事件でも,マリアは,母親の元に戻ることを嫌がっていた。これがマリアのクライシスコールであったことに大人たちは気づいていない。いずれも,大人が,親の言い分を優先し,子どもの声に耳を傾けなかったことから起きた虐待死である。

メアリー・エレン事件の方は,里親審査と里子に出された後の子どもと里親への継続支援がいかに大切であるかということを教えてくれる。

厚生労働省は,虐待などの理由で親元で育てられない子どもをより家庭的な環境で育てるために,里親委託率を引き上げ,特別養子縁組を大幅に増やす数値目標を示した新指標を導入する方針である。

児童相談所は虐待対応に追われており,里親のリクルートや委託された里親に対する事後の継続した養育状況の把握や支援を適切に行なえるとは,とても思えない。

政府は,東京都目黒区や千葉県野田市で起きた女児の死亡事件で,「しつけ」の名目で虐待が行われていたことから,「児童のしつけに際して体罰を加えてはならない」などと明記する児童福祉法と児童虐待防止法の改正案を今国会に提出することを決めた。体罰禁止を法制化するためには,民法で認められている「懲戒権」を見直す必要がある。このため改正案には,改正法施行後5年をめどに検討し,必要な措置を講ずるということも盛り込まれる予定だ。しかし,「法で縛り過ぎるとかえって親を追い詰めないか」との懸念や虐待の陰湿化にもつながりかねないと不安視する向きもある。

子どもの虐待は,身体的,精神的,経済的,社会的要因が複雑に絡み合って起きると考えられている。法律論や制度論だけでは解決しえない問題である。しかも,起きてからの対応では後手に回りがちで,失われるものが少なくない。未然防止策の取組みが肝心であろう。

今日,虐待の危険因子については一定のエビデンスを踏まえた知見も蓄積されている。既に,1975年ブラント・スティールは,『虐待をしてしまう親との協働-精神医学的観点から』の中で,「未熟さと依存性」「社会的孤立」「自信のなさ」「生きる上での満足感を得る難しさ」「子どもの親であると言う自覚の乏しさ」「子どもを甘やかしてしまうのではないかと言う恐れ」「信じて疑わない罰に対する価値」「子どもの立場に立って受けとめる能力の低さ」を指摘している(参照:『母性愛の危機 体罰と虐待』A.W.フランクリン編 作田勉訳編 日本文化科学社1981)。

近年では,保護者側のリスク要因として,望まぬ妊娠,10代の妊娠,被虐待経験,育児に対する不安やストレスなど,養育環境のリスク要因としては,夫婦関係をはじめ人間関係に問題を抱える家族,転居を繰り返す家族,親族や地域社会から孤立した家族,失業や転職の繰り返しで経済不安のある家族,夫婦不和,配偶者からの暴力等不安定な状況にある家族などがあげられている。

婚姻の自由は憲法で保障されており,養育能力に不安がある若者に対して,子どもを産み育てる権利を無前提に制限するのは優生思想につながりかねず慎重であるべきことは言うまでもない。大切なことは,単に虐待を予防するだけでなく,社会が親の養育(parenting)様式を変えるための目的を持つということだ。

人は生まれながらに自由(born free)であり,その尊厳を何ものによっても損なわれることがあってはならない。この世に生を受け,一人の人格として尊重される自由の保障は,将来親となる者だけでなく,政治の責任と社会全体の努力で実現すべきであろう。

虐待と家族に関する実証的データをこうしたことに生かす,それもハイリスクとされる親だけでなく,将来子どもを持つところに立っている次の世代に対する虐待予防教育に生かすというのが,人間の知恵というものであろう。

(マインドファースト通信編集長 花岡正憲)

編集後記:新元号「令和」の典拠は,万葉集の「梅花の歌三十二首」序文にある「初春令月,気淑風和」(初春の佳き月で,空気は清く澄みわたり,風はやわらかくそよいでいる)の一節とされています。この序文は,中国の詩文集『文選』に収録されている後漢の学者で役人でもあった張衡(78~139年)の『帰田賦(帰田の賦)』の「仲春令月,時和気清」(初春の令月にして,気淑く風和ぎ)の一部を踏まえているという説があります。『帰田賦』は,「中央政府の腐敗に嘆き,この世界から抜け出して,郷里の田園に帰って農事に従うこと」を言おうとしていると言われます。新元号は初の国書を典拠としたとは言え,大伴旅人は,漢籍(漢時代の中国書籍)の影響を受けているということです。1979年(昭和54年)6月12日に公布,即日施行された元号法は,「元号は政令で定める事」「元号は皇位の継承があった場合に限り改める事(一世一元の制)」を定めているにすぎず,公文書などにおいて元号の使用を規定するものではありません。元号法制定にかかる国会審議で「元号法は,その使用を国民に義務付けるものではない」との政府答弁があり,法制定後,多くの役所で国民に元号の使用を強制しないよう注意を喚起する通達が出されています。今回は天皇の生前退位と言うこともあり,元号が政治利用されたという批判も少なくありません。そもそも元号とは中国起源で,日本を含むアジア東部における紀年法の一種です。皇帝が時を支配するためのものであるため,国民主権に矛盾するという意見もあります。わが国では,すでに1946年,第55代内閣総理大臣石橋湛山が,『東洋経済新報』で元号廃止・西暦使用を主張しています。(今回の理事会報告は,次号に行わせていただきます)(H.)